ロシア宇宙飛行士とUFO
(露プラウダ 2009/11/06)
2009年9月30日、史上初のウクライナ人宇宙飛行士パヴェル・ロマノヴィッチ・ポポヴィッチ少将が亡くなった。多くの叙勲を受けたソビエト連邦の英雄であり、常に民族の誇りを忘れない人物だった。
彼の人生は、1978年以来のソ連のUFO調査の混乱した歴史と密接に交差して来た。
彼は1929年10月5日、ソビエト・ウクライナで生まれた。若き技術者であり、アマチュア・パイロットだった彼はソビエト空軍に入隊した。1960年に、彼は第一期宇宙飛行士として登録された。彼は有人宇宙ロケットの史上四番目の宇宙飛行士だった。彼は宇宙飛行士訓練のすべてを体験した。
彼の最初の宇宙飛行は、1962年のヴォストク4宇宙ロケットによるものだった。後に、ソビエトの月面探査計画の訓練を受ける。計画が中止となった後、ソユーズ宇宙船の訓練に入る。1974年のソユーズ14の二度目の宇宙作戦で、彼はパイロットを務めた。この飛行はソビエト軍の宇宙技術研究の一部だった。ポポヴィッチは暗号名ベルクト1(ゴールデンイーグル)と呼ばれた。サリュート3宇宙ステーション(本当の名前は秘密戦基地アルマズ2)とドッキングした。ポポヴィッチと技術者たちは軍事情報作戦の指揮下にあった。彼らは強力な赤外線光線機器、14の特別カメラ、そして、電磁波キャノンを所持していた。任務のひとつは、アメリカのスカイラブ・ステーションを3人の宇宙飛行士とともに捕獲する事だった。アメリカ人はポポヴィッチに「侵略者」というあだ名をつけた。だが、作戦は後に打ち切りとされた。
1980年から1989年の間、彼は副司令官としてガガーリン宇宙飛行士訓練センターに配属された。
1990年、ソビエト・ユニオン初の公立UFO調査機関OYUZUFOTSENTRが公式に設立された。理事長は潜水艦乗りの元海軍将校で、苦難の独立UFO研究者のV・アジャジャだった。パヴェル・ポポヴィッチが総裁になったのは、UFO研究家である友人の懇願によるものだった。ポポヴィッチはUFOに関心を持っていなかった。彼は、ソビエト秘密作戦の一部として、研究の独立性を保つべく努力した。彼の権威と名声は、1991年以降のロシアで、アジャジャを大いに助けた。
1978年、強力な軍事機関委員会がふたつのUFO調査センターを作った。ひとつはソ連科学アカデミー内で、もうひとつはソ連防衛省内だった。ソ連科学アカデミーの超常現象研究は、SETKA-ANとして特別科学研究計画の主題に指定された。ソビエト国防省は、シークレットSETKA-MOというよく似た計画を開始した。両方のセンターは、互いのUFO研究で協力しあい、情報を交換した。SETKA-ANの最初の活動は、UFOという禁止用語の代わりに「異常大気現象」という用語を使用する許可を得る事だった。
SETKA-ANの批評家はロケット発射の観測間違いにすぎないといった、UFOの存在を否定する調査を行った。しかし、UFOは軍隊の訓練の間に出現し、無線交信を切断したり、機械を機能不全に陥らせてた。
研究は1991年に終了したが、専門家のグループは一般医学部とロシア科学アカデミーの宇宙科学部門に残り、1996年まで報告を続けた。
ポポヴィッチによれば、UFO情報は第二次世界大戦中のクルスク戦から始まる。
1978年、ピッツバーグで開催された国際ガガーリン会議からの帰還途中、ワシントン−モスクワ便の機内でパヴェル・ポポヴィッチはUFOを目撃した。
標高は10500メートルだった。ポポヴィッチは操縦席に駆け込んだ。操縦室の機器には何も示されていなかった。また、地上からも何も観測されなかった。
乗組員もその物体を目撃した。物体は素早く動きまわった。それは簡単に航空機を追い越した。それは、数分と視界に留まってはいなかった。彼らはプロフェッショナルとして、物体が何なのか決定できなかった。
ポポヴィッチは目撃について何も言えなかった。それが秘密兵器の試験だったかもしれないからだった。
晩年、ポポヴィッチはもう一度宇宙に飛びたいという夢を語りながら、宇宙飛行士たちの多くが住む、モスクワ近郊で暮らした。
UFOファイル探しのハッカー裁判
(英タイムズ 2009/11/27)
(英インデペンデント 2009/11/27)
アスペルガー症候群患者ゲリー・マッキノンは、2003年にアメリカ軍とNASAのコンピュータに侵入し、検挙された。彼がハッキングしたのは、隠されたUFOの証拠を探してのことだった。
2009年11月、裁判でアメリカへの引き渡しを行わないよう訴えたが拒否された。
ダリネゴロスクUFO事故:ソビエト連邦のロズウェル事件
(露プラウダ 2010/02/05)
1986年1月29日7時55分、ソビエトのロズウェルと呼ばれる有名なUFO事件が発生した。
ダリネゴロスクはロシア極東部の小さな炭鉱町である。凍てつく1月のその日、赤い球体が南東方向から飛んできて、ダリネゴロスク上空を通過し、イズヴェストコヴァヤ山の611高地に激突した。その物体は無音で、地面と平行に飛んだ。それは直径3メーター近く、ほぼ完璧な球形で、突起物も溝もなく、焼けたステンレス鋼に近い色だった。一人の目撃者、V・カンダコフはそのUFOの速度は時速15メーターに近かったと証言した。
1986年2月8日午後8時30分、2機の黄色い円盤が北から飛来した。墜落現場上空を4度旋回し、その後、北に引き返して行った。1987年11月28日午後11時24分、32の飛行物体がどこからともなく出現した。それは数百人に目撃された。
UFO、羊を攻撃 英国
(米ニューザー 2010/04/06)
レーザー光線で羊が負傷した。
ニューヨークの教授UFO学位主張
(米ニューザー 2010/04/14)
フィリップ・ハーズリー教授がUFO目撃の真面目な研究の機が熟したとしている。数百万人の目撃が毎年報告されている。
UFO、規則的にモスクワに出現し始める
(露プラウダ 2010/05/21)
2009年12月21日、赤の広場でUFOが目撃された。
1977年8月5日、3つの火の玉が目撃されているが、モスクワ上空へのUFOの出現は頻繁ではなかった。
EUのXファイル
(英テレグラフ 2010/07/06)
EU議会がUFO目撃の「Xファイル」文書館設立を求める。
中国にUFO出現
(露プラウダ 2010/07/20)
7月14日夜、UFOが中国航空蕭山空港を混乱らせた。14便200人に足に影響が出た。目撃者は多数いたが、空港のレーダーには補足されなかった。
チャーチル、UFO事件を隠蔽
(英テレグラフ 2010/08/05)
UFOファイル:第二次大戦中、英空軍爆撃機のUFO遭遇で、国民のパニックを恐れたウィンストン・チャーチルが「パニックの恐れがある」と事件の隠蔽を命じた事が明らかとなった。
ザ・UFOファイル:目撃のスケッチと報告 英国
(英テレグラフ 2010/08/05)
英国防省がUFOファイルを新たに公開した。
英国立文書館のUFOファイル、ウェールズのロズウェルを信じる人々を支持
(英ガーディアン 2010/08/15)
UFOエンスージャストが「ウェーリッシュ・ロズウェル」と呼ぶ、ウェールズ北部の1974年のエイリアン機事故と、政府職員による遺体の持ち去りの証拠となる文書が公開された。
1974年1月23日の事件の場所は封印された。エイリアンたちの遺体は、分析のため、イングランド・サリズベリー北東にあるポートンダウン英国国防省応用微生物研究所に持ち去られた。1947年にアメリカで起きたロズウェルとそっくりの事件だった。
地球外宇宙船の着陸と事故は頻繁
(露プラウダ 2010/08/18)
エイリアンの宇宙基地は謎の場所、ボリビアのエルタイアー山の中にある。