インターネットのサイト、ニュー・アドベントのカトリック・エンサイクロペディア(http://www.newadvent.org/cathen/)にイルミナティの項がある。
これによればイルミナティの設立者アダム・ワイスハウプトは一七四八年二月六日、バイエルンのインゴルシュタットで生まれたという。両親はヴェストファーレン人だったようだ。
ユダヤ教正統派ラビ、マービン・アンテルマンによれば、ワイスハウプトはユダヤ人であった。
ワイスハウプトは一七五三年、五歳で父を失う。それでも名付け親であり、イクシュタット高校校長であった祖父の助力があり、イエズス会学校に学んだ。祖父は自由思想の持ち主で、ワイスハウプトは早い時期に大きな影響を受けたという。
一七七二年、ワイスハウプトはインゴルシュタット大学で民法の講師として職を得る。そして、翌一七七三年には教会法教授に就任するのである。俗人としては初の教授就任であった。
これには後に述べる事情が考えられるが、ワイスハウプトが優秀だったのは確かな事だろう。若干二四歳、おそらく頭が良いだけでなく、性格も強く、自らに恃むところも大きい青年であっただろう。
少壮の教授ワイスハウプトは学生に強い影響をもたらしたが、その合理主義が大学の支援者であるインゴルシュタットの有力者に悪い印象を与えたという。
ワイスハウプトはそこで、秘密結社の力で自らを守ろうとしたと、カトリック・エンサイクロペディア(以下、百科)にあるが、少し唐突な印象を受ける。
実はこのあたり、別の説もある。
一七七〇年にワイスハウプトはマイヤー・ロスチャイルドと会って資金援助され、秘密カルトを作ったというのである。
一七七〇年というと、ワイスハウプトは二二歳、一七四三年生まれのロスチャイルドは二七歳の時であった。
二〇歳でオッペンハイム商会から独立し、小銭商を営んでいたロスチャイルドはヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム九世の知遇を得、一七六九年に「ヘッセン・ハーナウ侯国宮廷御用商人」に取り立てられた。そしてユダヤ人豪商ザロモン・シュナッパーの娘グトレと結婚したのが一七七〇年である。
ロスチャイルドが自らの財を成すのはヴィルヘルム九世が英国にドイツ傭兵を斡旋して莫大な資金を得たアメリカ独立戦争の時だから、一七七五年以降となる。もし、ロスチャイルドがワイスハウプトに資金提供したとすれば、それは結婚で得た妻の金だった可能性がある。
あるいは、ヴィルヘルム九世がロスチャイルドを使ってワイスハウプトに金を与えたという可能性もある。これについては後述する。
そして、もうひとつありうるのは、ロスチャイルドからワイスハウプトへの資金提供などまったくなかったという事である。
ともかく、一七七四年に、ワイスハウプトはフリーメーソンリーに接近する。
一説によれば大きな力を期待しての事だったという。しかし、実態を知れば知るほど、フリーメーソンリーがワイスハウプトの願っていたような力を持っていない事が明らかとなった。そこでワイスハウプトは独自の秘密結社の設立を思い立ったのだという。
このような曲折を経ての事か、あるいは、ロスチャイルドとの密約があっての計画的行動か、ワイスハウプトは自らの結社ごとフリーメーソンリーに加入する。一七七七年のはじめの事であった。フリーメーソンリーへのイルミナティの浸透が開始された。
百科によれば、イルミナティの儀式は、イエズス会の様式にフリーメーソンの儀式を加えたものだったという。
そして、一七八〇年、百科によれば「フリーメーソンリーのエージェント」、アドルフ・クランツ・フリードリヒ・クニッゲが現れる。クニッゲは一七五二年生まれだったから、ワイスハウプトより四歳下である。しかし、実際的力があり、精力的で、イルミナティに加入してから二年間で五〇〇人の会員を集める手腕を見せた。
一七八二年七月一六日から八月二九日にウィルヘルムスバッドで開催されたフリーメーソンリーの国際会議で、ワイスハウプトとクニッゲは「イルミナティ・フリーメーソンリー」ブランチの結成を宣言し、了承された。
イルミナティはスウェーデン、ロシア、ポーランド、デンマーク、ハンガリー、オーストリア、フランスに活動を広げた。ゲーテ、ヘルダーといった著名人な知識人も会員に名を連ねた。
しかし、一七八三年になるとワイスハウプトとクニッゲの間に不和が生じ、一七八四年にはクニッゲが、
「イエズス会主義者」
「偽装イエズス会」
と、ワイスハウプトを罵るまでに関係が悪化したと百科にある。
ワイスハウプトの傲慢な頑迷さにクニッゲは怒り心頭に発したらしい。
一七八三年頃には、イルミナティにアナーキズムの風潮が蔓延し、バイエルン当局の目にとまるようになっていた。
バイエルン当局は一七八四年から一連の法律を公布し、イルミナティを取り締まった。
一七八四年六月二二日、一七八五年三月二日、八月一六日、一七八七年八月一六日の四回にわたる公布であった。
この最後に公布された法律にはイルミナティ結社への加入の勧誘が死罪とされた。バイエルンでのイルミナティの活動は息の根を絶たれる事となった。
だが、この迫害は、かえってバイエルン以外の地でのイルミナティの啓蒙主義の普及を加速したという。その傾向は特にフランスで著しいものであった。
一七八五年二月一六日、ワイスハウプトはインゴルシュタットを脱出した。
この後、バイエルン当局の告発とワイスハウプト、クニッゲ等の弁明の手紙が多数公開され、残される事となった。
以上がイルミナティのアウトラインである。
ここで話をワイスハウプトの教授就任に話を戻す。
インゴルシュタット大学は教育活動に熱心だったイエズス会の大学であり、教員はすべて聖職者であるのがあたりまえだった。だが、一七七三年、教皇の名においてイエズス会に解散命令が下されたのである。
つまり、ワイスハウプトが俗人ながら教授になったのは、イエズス会がなくなってしまったため、必然的にイエズス会の聖職者を教授にする事が不可能になったからだった。
イエズス会の解散命令の理由は、今で言うテロ活動だった。イエズス会はカトリック教会のアルカイダと言えるほどのテロ活動を展開した。暗殺や謀略活動を各地で行い、各国で活動を禁止されて行った。そして、ついに解散を命じられてしまったのである。
活動禁止は、
一七五〇年、ポルトガル
一七六四年、フランス
一七六七年、スペイン、ナポリ
といった状態であった。
そういう国々では、地下活動を続けていたが、教皇庁への圧力が大きくなり、教皇としてもいやいやながらイエズス会解散を決断しなければならなくなった。
一七七三年の解散命令の後、多くのエイズス会士が英国とロシアに逃亡したと言う。
正教が主流であるロシアではイエズス会が活動を継続していたから当然としても、英国への逃亡は興味深い。イエズス会が主敵として来た相手はプロテスタントであり、英国はプロテスタントの本陣だったのである。
プロテスタントと戦うために結成されたとしばしば言われるほど、イエズス会は対プロテスタント突撃部隊の性格を持つ修道会であった。プロテスタントの脅威があったればこそ、イエズス会はその激しい行動が容認されて来たのである。それが英国に逃げ込み、英国もあっさりと受け入れた、不倶戴天の敵であったはずの両者にしてこれである。まさにヨーロッパの権謀術策の歴史である。
イエズス会が復活するのは一八一四年であるが、それまでの間も地下活動が続けられていたのは当然である。
そこで、英国に逃げたイエズス会が、ヴィルヘルム九世を介し、ロスチャイルドを使ってワイスハウプトに資金提供した可能性が浮かび上がる。
ヴィルヘルム九世は、ヨーロッパにいたが、血筋は英国王室である。アメリカ独立戦争時には英国のためにドイツ傭兵をアメリカに送るなどしている。英国の代理人と見ていい人物である。
微妙な状態に置かれていたイエズス会が自らのチャンネルを使ってカトリック教会に発覚するのを避け、秘密を守れる別チャンネルを使ってワイスハウプトに資金提供するとしたら、これ以上はない送金経路がヴィルヘルム九世ルートである。
いや、イエズス会は英国に金を渡し、依頼しただけかもしれない。そして、ヴィルヘルム九世は、まだ強い関係である事が世間に知られていないマイヤー・ロスチャイルドを使ってワイスハウプトに金を渡したのである。双方がユダヤ人だという事もあったかもしれない。
クニッゲがワイスハウプトを「偽装イエズス会」と罵ったのは、あながち間違ってはいなかったのかもしれない。
銀行を作ったのはカトリック教会である。戦争ばかりしていた領主や王族諸侯に戦費を貸していたし、十字軍では本国から戦地にいる騎士たちへの給料の送金システムを作り上げた。こうした金貸し業務をするには、当時、教会の許可が必要だったが、教会は自らには何もかも許した。ユダヤ人の金貸しと言っても小金のやりとりにすぎなかった。戦費といった規模の資金は教会にしか調達できなかった。
ロスチャイルドが銀行業で成功するには、教会の中から助力がなければ不可能だったはずなのである。その助力をしたのが最大の修道会であり、資金力もあったイエズス会であったとしても不思議ではない。そうだとすれば、ワイスハウプトへの送金が結びつきの最初だったかもしれない。
スイス傭兵やドイツ傭兵はヨーロッパ各地に雇われ、戦ったが、カトリック教会は大口の顧客のひとつであった。その中でも、スペイン軍人が設立者であったイエズス会は、軍事組織と情報組織と教育機関が一体となった修道会で、傭兵との関係も強かったはずだ。英国がドイツ傭兵を使うにあたって、イエズス会がこれを仲介したという事も十分にありえるのである。
インゴルシュタットを脱出して二年後の一七八七年、ワイスハウプトはゴータに姿を現した。
ゴータに落ち着き、教会に許しを乞う手紙を書き続けたワイスハウプトだったが、許される事はなかったという。それでも、熱心に教会活動を行い、秘密結社のつながりはこれを一切絶っていたと百科にある。
クニッゲは一七九六年に没し、関係があったかなかったか、マイヤー・ロスチャイルドも一八一二年に死んだ。
一八三〇年十一月一八日、アダム・ワイスハウプトはその生涯を閉じた。教会との和解は成立したという。