2010年12月28日火曜日

国際情勢分析 米軍イラク撤退

米軍がイラクを撤退した。未熟な新イラク軍に対して、旧フセイン派、アルカイダといったテロ集団が攻撃を激化させている。
元々イラクは民主党と親密な関係にあった。カーター大統領時代にはカーター政権の意を受け、イランと戦争を行った。当時、アメリカは大量の軍事顧問をイラクに投入していた。
また、親米派だったサダム・フセインは、長年アメリカ人傭兵を雇ってもいた。
イラン・イラク戦争を振り返ると、一方のイランは共和党とのつながりが深い、カーター時代のイラン革命で捕虜にしたアメリカ大使館員をロナルド・レーガン時代に釈放している。一部のイスラム原理主義者をのぞけば、イラン人の多くが親米である。歴史上、少数の強硬派が多数を引っ張って我を通してしまう例はよくある。
現在のイラクも、多数の国民は戦争やテロにうんざりしているだろうし、アメリカと仲の良い豊かな産油国に戻りたいはずだ。
だが、フセインが政権維持のために煽って来たシーア派とスンニ派の対立、クルドの民族問題は激化する一方だ。
これは開戦前にあったイラク三分割案に沿って、対立が煽られ続けている可能性もある。イラクはゆっくりと三分割に向かっていると見る事もできるからである。
こうした状態で米軍が撤退すれば治安維持力に空白が生じる。現イラク政権は軍事的力をアメリカに依存して来た。そして、今にいたるも自らの治安維持能力を保持していない。彼らのイラク軍は育っていない。また、近い将来に力を持つ見込みもない。
これは撤退が決定した時にわかっていた事だ。サダム・フセインは長期にわたって独裁政権を維持して来ており、現在でもかなりの残存勢力を残している。新しい政府が簡単に治安を維持できるわけはないのである。
そうしたイラク情勢の中、米軍が撤退したのである。
だが、米軍が撤退したといっても、実は米国の軍事力はまだ残っている。民間軍事企業である。こちらは増強されているのである。
もし、これを認めなければ、旧フセイン勢力とアルカイダのようなイスラム過激派によってイラクで大虐殺が引き起こされるだろう。そこで英米の民間軍事企業にその力を委ねるしかないのである。
もちろん、オバマ政権は最初からそのつもりで事を進めて来たはずである。
かくして、イラク戦争は民営化されたのである。

2010年12月26日日曜日

マービン・アンテルマン試論・1

マービン・アンテルマンの『トゥー・エリミネイト・ザ・オピエイト』(TO ELIMINATE THE OPIATE)はイルミナティ研究の画期をなした書である。
アンテルマン以降、ユダヤとイルミナティは峻別される事となった。それまでは、イルミナティもフリーメーソンも、すべて「ユダヤの陰謀」として括られていたのである。それを、イルミナティ研究を通しての歴史的、国際的陰謀の解明をもって新たな地平を切り開いたのがアンテルマンの仕事であったと言って過言ではない。
アンテルマンはアメリカで黒人過激派によるユダヤ人への攻撃を体験した。そして、これに対抗しようとした時、同じユダヤ人でありながら、リベラル派が黒人過激派に味方した事に驚き、憤った。ユダヤ人の生命財産の侵害に、ユダヤ人が荷担したのである。これは比喩ではなく、実際に血が流されたのだという。
アンテルマンは自衛の戦いを開始した。その一環として、リベラル派の思想研究が行われた。情報戦である。そして、それがイルミナティ研究にアンテルマンを導いたのである。アンテルマンの研究は陰謀論趣味といった次元のものではなく、今日明日に必要な、現実的実際的な戦いの産物だった。
アンテルマンは、イルミナティがその啓蒙主義をもってユダヤ教を破壊しようとしたとする。神よりも理性という啓蒙の主張は信仰の破壊でしかないというわけである。
そして、ユダヤ教の破壊は、ユダヤ教の聖書を聖典とする事でユダヤ教を起源とするキリスト教、イスラム教の破壊につながるという。イルミナティは、キリスト教にもイスラムにも浸透しているというのである。
イルミナティの啓蒙主義は、フランス革命のジャコバンを生み出し、ユダヤ教改革派を作り出し、また、保守派も作り出し、正義者同盟(ブント)を作り出した。
正義者同盟は共産党の前身であったが、彼らはカール・マルクスを雇って共産党宣言を書かせたのだという。マルクスが改宗ユダヤ人でありながら反ユダヤ的言論活動を行った事も触れられている。これは事実である。
このあたりは現在ならさほど驚かされないが、本書が発表された一九七四年には、アメリカでさえずいぶんと刺激的だったろう。だが、マルクスや、マルクスの周辺の怪しさはいくらでも解明されてしかるべきなのだ。
マルクスの名で、あまりにも多くの血が流されて来た。それなのに、そのありようはあまりに伝説化されすぎて来た。一例を挙げれば、マルクスの著書には、その死後、エンゲルスをはじめソ連の担当者といった多くの者の手が入っているが、それすら長い間曖昧にされて来た。主著である「資本論」も、第一巻はマルクスの手になるものだが、第二巻以降は、死後にまとめられたという事情もあって、エンゲルスによって大幅に手が入れられている事が今では明らかにされている。これについてマルクス主義者たちはオリジナルが歪められた事を不見識と憤慨するかもしれないが、憤慨する方が不見識かもしれないのだ。つまり、マルクスの書いたものがオリジナルとして崇め奉られるたぐいのものではなく、用を足すためには手を入れてもいいようなものとして成立していた可能性がある。「共産党宣言」が雇われ仕事だったというのは、そういう事につながる。実際、ソビエト・ロシアでは、用を足すためにマルクスを十二分に活用して来た。人道や良心を踏みにじるために、マルクス主義と(ボルシェビキ)革命は便利な道具であり続けた。それをレーニン主義と言うが、スターリンもトロツキーも、その他の後継者も、みなレーニン主義だった。そして、マルクス主義は、そうしたレーニン主義と一揃いになって実用に供されなければ、無意味な教条でしかないものだった。
マルクス主義の悪はすでにわかっている。しかし、それがイルミナティの陰謀に発している事は解明されつくしていない。アンテルマンの仕事は、進歩派との戦いから始まり、マルクスなど通り越し、はるかに深く、歴史に突き刺さって行った。

2010年12月25日土曜日

国際情勢分析 パキスタン洪水支援の裏

パキスタンは大きな洪水被害にみまわれ、その被害規模もまだ明らかになっていない。現地ではコレラの発生が見られるなど、難民の救援は急を要する状態にある。だが、難民となった人々にさならる追い打ちをかける状況がパキスタンにある
在米パキスタン人は本国にほとんど救援金を送っていない。なぜかといえば、腐敗した政府の人間たちの懐に入ってしまうからである。役人たちにくすねられるとわかっていて送金する者はさすがにいないというわけである。
それだけではない。アフガニスタンから逃げこんで来たタリバン勢力が事態を複雑にしている。
タリバンは、難民に西側からの支援を拒否せよと呼びかけ、独自の救援活動を行って競争をしかけている。また、海外の救援団体の隊員を誘拐すると宣告している。
それだけを見れば、相変わらず硬直した宗教性と物事の軽重の判断のつかない頭の悪さ、凶暴さしかないが、実は彼らも海外からの支援を横領している可能性がある。
元々タリバンが長年戦えているのは、武器、資金の支援があるからである。
まず、アルカイダと一緒で、アラブ世界全体からの支援や支持があるだろう。また、パキスタン内のタリバン支持勢力がある。これは政府内や軍部にまでいて、軍事物資や情報をタリバンに渡している。アメリカがパキスタンに提供する武器の一部がそのままタリバンに流れているわけである。
それだけではない。中国からパキスタンに入る武器もタリバンに流れている。
中国からの武器は、パキスタン政府に入るものと、闇市場に流れこむものがある。ずいぶん前からパキスタンは大きな武器の闇市場と言われている。ここに流入する武器の多くは中国製と考えられる。
アフガニスタンとパキスタンの戦闘を見ると、大量の武器の消費消耗を考えねばならない。それを補うだけの武器の供給元は中国以外に考えられない。
勘定高い中国から武器を買い、戦争を続けるために、タリバンはいくら金があっても足りない。そして、今、国連の呼びかけもあって、パキスタンに巨額の支援金が入り始めている。
どれだけの金がパキスタン政府とタリバンに横取りされるのか……

2010年12月21日火曜日

UFOfiles

ロシア宇宙飛行士とUFO
(露プラウダ 2009/11/06)
2009年9月30日、史上初のウクライナ人宇宙飛行士パヴェル・ロマノヴィッチ・ポポヴィッチ少将が亡くなった。多くの叙勲を受けたソビエト連邦の英雄であり、常に民族の誇りを忘れない人物だった。
彼の人生は、1978年以来のソ連のUFO調査の混乱した歴史と密接に交差して来た。
彼は1929年10月5日、ソビエト・ウクライナで生まれた。若き技術者であり、アマチュア・パイロットだった彼はソビエト空軍に入隊した。1960年に、彼は第一期宇宙飛行士として登録された。彼は有人宇宙ロケットの史上四番目の宇宙飛行士だった。彼は宇宙飛行士訓練のすべてを体験した。
彼の最初の宇宙飛行は、1962年のヴォストク4宇宙ロケットによるものだった。後に、ソビエトの月面探査計画の訓練を受ける。計画が中止となった後、ソユーズ宇宙船の訓練に入る。1974年のソユーズ14の二度目の宇宙作戦で、彼はパイロットを務めた。この飛行はソビエト軍の宇宙技術研究の一部だった。ポポヴィッチは暗号名ベルクト1(ゴールデンイーグル)と呼ばれた。サリュート3宇宙ステーション(本当の名前は秘密戦基地アルマズ2)とドッキングした。ポポヴィッチと技術者たちは軍事情報作戦の指揮下にあった。彼らは強力な赤外線光線機器、14の特別カメラ、そして、電磁波キャノンを所持していた。任務のひとつは、アメリカのスカイラブ・ステーションを3人の宇宙飛行士とともに捕獲する事だった。アメリカ人はポポヴィッチに「侵略者」というあだ名をつけた。だが、作戦は後に打ち切りとされた。
1980年から1989年の間、彼は副司令官としてガガーリン宇宙飛行士訓練センターに配属された。
1990年、ソビエト・ユニオン初の公立UFO調査機関OYUZUFOTSENTRが公式に設立された。理事長は潜水艦乗りの元海軍将校で、苦難の独立UFO研究者のV・アジャジャだった。パヴェル・ポポヴィッチが総裁になったのは、UFO研究家である友人の懇願によるものだった。ポポヴィッチはUFOに関心を持っていなかった。彼は、ソビエト秘密作戦の一部として、研究の独立性を保つべく努力した。彼の権威と名声は、1991年以降のロシアで、アジャジャを大いに助けた。
1978年、強力な軍事機関委員会がふたつのUFO調査センターを作った。ひとつはソ連科学アカデミー内で、もうひとつはソ連防衛省内だった。ソ連科学アカデミーの超常現象研究は、SETKA-ANとして特別科学研究計画の主題に指定された。ソビエト国防省は、シークレットSETKA-MOというよく似た計画を開始した。両方のセンターは、互いのUFO研究で協力しあい、情報を交換した。SETKA-ANの最初の活動は、UFOという禁止用語の代わりに「異常大気現象」という用語を使用する許可を得る事だった。
SETKA-ANの批評家はロケット発射の観測間違いにすぎないといった、UFOの存在を否定する調査を行った。しかし、UFOは軍隊の訓練の間に出現し、無線交信を切断したり、機械を機能不全に陥らせてた。
研究は1991年に終了したが、専門家のグループは一般医学部とロシア科学アカデミーの宇宙科学部門に残り、1996年まで報告を続けた。
ポポヴィッチによれば、UFO情報は第二次世界大戦中のクルスク戦から始まる。
1978年、ピッツバーグで開催された国際ガガーリン会議からの帰還途中、ワシントン−モスクワ便の機内でパヴェル・ポポヴィッチはUFOを目撃した。
標高は10500メートルだった。ポポヴィッチは操縦席に駆け込んだ。操縦室の機器には何も示されていなかった。また、地上からも何も観測されなかった。
乗組員もその物体を目撃した。物体は素早く動きまわった。それは簡単に航空機を追い越した。それは、数分と視界に留まってはいなかった。彼らはプロフェッショナルとして、物体が何なのか決定できなかった。
ポポヴィッチは目撃について何も言えなかった。それが秘密兵器の試験だったかもしれないからだった。
晩年、ポポヴィッチはもう一度宇宙に飛びたいという夢を語りながら、宇宙飛行士たちの多くが住む、モスクワ近郊で暮らした。

UFOファイル探しのハッカー裁判
(英タイムズ 2009/11/27)
(英インデペンデント 2009/11/27)
アスペルガー症候群患者ゲリー・マッキノンは、2003年にアメリカ軍とNASAのコンピュータに侵入し、検挙された。彼がハッキングしたのは、隠されたUFOの証拠を探してのことだった。
2009年11月、裁判でアメリカへの引き渡しを行わないよう訴えたが拒否された。

ダリネゴロスクUFO事故:ソビエト連邦のロズウェル事件
(露プラウダ 2010/02/05)
1986年1月29日7時55分、ソビエトのロズウェルと呼ばれる有名なUFO事件が発生した。
ダリネゴロスクはロシア極東部の小さな炭鉱町である。凍てつく1月のその日、赤い球体が南東方向から飛んできて、ダリネゴロスク上空を通過し、イズヴェストコヴァヤ山の611高地に激突した。その物体は無音で、地面と平行に飛んだ。それは直径3メーター近く、ほぼ完璧な球形で、突起物も溝もなく、焼けたステンレス鋼に近い色だった。一人の目撃者、V・カンダコフはそのUFOの速度は時速15メーターに近かったと証言した。
1986年2月8日午後8時30分、2機の黄色い円盤が北から飛来した。墜落現場上空を4度旋回し、その後、北に引き返して行った。1987年11月28日午後11時24分、32の飛行物体がどこからともなく出現した。それは数百人に目撃された。

UFO、羊を攻撃 英国
(米ニューザー 2010/04/06)
レーザー光線で羊が負傷した。


ニューヨークの教授UFO学位主張
(米ニューザー 2010/04/14)
フィリップ・ハーズリー教授がUFO目撃の真面目な研究の機が熟したとしている。数百万人の目撃が毎年報告されている。

UFO、規則的にモスクワに出現し始める
(露プラウダ 2010/05/21)
2009年12月21日、赤の広場でUFOが目撃された。
1977年8月5日、3つの火の玉が目撃されているが、モスクワ上空へのUFOの出現は頻繁ではなかった。

EUのXファイル
(英テレグラフ 2010/07/06)
EU議会がUFO目撃の「Xファイル」文書館設立を求める。

中国にUFO出現
(露プラウダ 2010/07/20)
7月14日夜、UFOが中国航空蕭山空港を混乱らせた。14便200人に足に影響が出た。目撃者は多数いたが、空港のレーダーには補足されなかった。

チャーチル、UFO事件を隠蔽
(英テレグラフ 2010/08/05)
UFOファイル:第二次大戦中、英空軍爆撃機のUFO遭遇で、国民のパニックを恐れたウィンストン・チャーチルが「パニックの恐れがある」と事件の隠蔽を命じた事が明らかとなった。

ザ・UFOファイル:目撃のスケッチと報告 英国
(英テレグラフ 2010/08/05)
英国防省がUFOファイルを新たに公開した。

英国立文書館のUFOファイル、ウェールズのロズウェルを信じる人々を支持
(英ガーディアン 2010/08/15)
UFOエンスージャストが「ウェーリッシュ・ロズウェル」と呼ぶ、ウェールズ北部の1974年のエイリアン機事故と、政府職員による遺体の持ち去りの証拠となる文書が公開された。
1974年1月23日の事件の場所は封印された。エイリアンたちの遺体は、分析のため、イングランド・サリズベリー北東にあるポートンダウン英国国防省応用微生物研究所に持ち去られた。1947年にアメリカで起きたロズウェルとそっくりの事件だった。

地球外宇宙船の着陸と事故は頻繁
(露プラウダ 2010/08/18)
エイリアンの宇宙基地は謎の場所、ボリビアのエルタイアー山の中にある。

2010年12月20日月曜日

イルミナティ覚書

インターネットのサイト、ニュー・アドベントのカトリック・エンサイクロペディア(http://www.newadvent.org/cathen/)にイルミナティの項がある。

これによればイルミナティの設立者アダム・ワイスハウプトは一七四八年二月六日、バイエルンのインゴルシュタットで生まれたという。両親はヴェストファーレン人だったようだ。
ユダヤ教正統派ラビ、マービン・アンテルマンによれば、ワイスハウプトはユダヤ人であった。

ワイスハウプトは一七五三年、五歳で父を失う。それでも名付け親であり、イクシュタット高校校長であった祖父の助力があり、イエズス会学校に学んだ。祖父は自由思想の持ち主で、ワイスハウプトは早い時期に大きな影響を受けたという。
一七七二年、ワイスハウプトはインゴルシュタット大学で民法の講師として職を得る。そして、翌一七七三年には教会法教授に就任するのである。俗人としては初の教授就任であった。
これには後に述べる事情が考えられるが、ワイスハウプトが優秀だったのは確かな事だろう。若干二四歳、おそらく頭が良いだけでなく、性格も強く、自らに恃むところも大きい青年であっただろう。
少壮の教授ワイスハウプトは学生に強い影響をもたらしたが、その合理主義が大学の支援者であるインゴルシュタットの有力者に悪い印象を与えたという。
ワイスハウプトはそこで、秘密結社の力で自らを守ろうとしたと、カトリック・エンサイクロペディア(以下、百科)にあるが、少し唐突な印象を受ける。

実はこのあたり、別の説もある。
一七七〇年にワイスハウプトはマイヤー・ロスチャイルドと会って資金援助され、秘密カルトを作ったというのである。
一七七〇年というと、ワイスハウプトは二二歳、一七四三年生まれのロスチャイルドは二七歳の時であった。
二〇歳でオッペンハイム商会から独立し、小銭商を営んでいたロスチャイルドはヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム九世の知遇を得、一七六九年に「ヘッセン・ハーナウ侯国宮廷御用商人」に取り立てられた。そしてユダヤ人豪商ザロモン・シュナッパーの娘グトレと結婚したのが一七七〇年である。

ロスチャイルドが自らの財を成すのはヴィルヘルム九世が英国にドイツ傭兵を斡旋して莫大な資金を得たアメリカ独立戦争の時だから、一七七五年以降となる。もし、ロスチャイルドがワイスハウプトに資金提供したとすれば、それは結婚で得た妻の金だった可能性がある。
あるいは、ヴィルヘルム九世がロスチャイルドを使ってワイスハウプトに金を与えたという可能性もある。これについては後述する。
そして、もうひとつありうるのは、ロスチャイルドからワイスハウプトへの資金提供などまったくなかったという事である。
ともかく、一七七四年に、ワイスハウプトはフリーメーソンリーに接近する。

一説によれば大きな力を期待しての事だったという。しかし、実態を知れば知るほど、フリーメーソンリーがワイスハウプトの願っていたような力を持っていない事が明らかとなった。そこでワイスハウプトは独自の秘密結社の設立を思い立ったのだという。
このような曲折を経ての事か、あるいは、ロスチャイルドとの密約があっての計画的行動か、ワイスハウプトは自らの結社ごとフリーメーソンリーに加入する。一七七七年のはじめの事であった。フリーメーソンリーへのイルミナティの浸透が開始された。

百科によれば、イルミナティの儀式は、イエズス会の様式にフリーメーソンの儀式を加えたものだったという。
そして、一七八〇年、百科によれば「フリーメーソンリーのエージェント」、アドルフ・クランツ・フリードリヒ・クニッゲが現れる。クニッゲは一七五二年生まれだったから、ワイスハウプトより四歳下である。しかし、実際的力があり、精力的で、イルミナティに加入してから二年間で五〇〇人の会員を集める手腕を見せた。

一七八二年七月一六日から八月二九日にウィルヘルムスバッドで開催されたフリーメーソンリーの国際会議で、ワイスハウプトとクニッゲは「イルミナティ・フリーメーソンリー」ブランチの結成を宣言し、了承された。

イルミナティはスウェーデン、ロシア、ポーランド、デンマーク、ハンガリー、オーストリア、フランスに活動を広げた。ゲーテ、ヘルダーといった著名人な知識人も会員に名を連ねた。
しかし、一七八三年になるとワイスハウプトとクニッゲの間に不和が生じ、一七八四年にはクニッゲが、

「イエズス会主義者」
「偽装イエズス会」

と、ワイスハウプトを罵るまでに関係が悪化したと百科にある。
ワイスハウプトの傲慢な頑迷さにクニッゲは怒り心頭に発したらしい。

一七八三年頃には、イルミナティにアナーキズムの風潮が蔓延し、バイエルン当局の目にとまるようになっていた。
バイエルン当局は一七八四年から一連の法律を公布し、イルミナティを取り締まった。
一七八四年六月二二日、一七八五年三月二日、八月一六日、一七八七年八月一六日の四回にわたる公布であった。
この最後に公布された法律にはイルミナティ結社への加入の勧誘が死罪とされた。バイエルンでのイルミナティの活動は息の根を絶たれる事となった。
だが、この迫害は、かえってバイエルン以外の地でのイルミナティの啓蒙主義の普及を加速したという。その傾向は特にフランスで著しいものであった。
一七八五年二月一六日、ワイスハウプトはインゴルシュタットを脱出した。
この後、バイエルン当局の告発とワイスハウプト、クニッゲ等の弁明の手紙が多数公開され、残される事となった。
以上がイルミナティのアウトラインである。

ここで話をワイスハウプトの教授就任に話を戻す。
インゴルシュタット大学は教育活動に熱心だったイエズス会の大学であり、教員はすべて聖職者であるのがあたりまえだった。だが、一七七三年、教皇の名においてイエズス会に解散命令が下されたのである。
つまり、ワイスハウプトが俗人ながら教授になったのは、イエズス会がなくなってしまったため、必然的にイエズス会の聖職者を教授にする事が不可能になったからだった。

イエズス会の解散命令の理由は、今で言うテロ活動だった。イエズス会はカトリック教会のアルカイダと言えるほどのテロ活動を展開した。暗殺や謀略活動を各地で行い、各国で活動を禁止されて行った。そして、ついに解散を命じられてしまったのである。

活動禁止は、
一七五〇年、ポルトガル
一七六四年、フランス
一七六七年、スペイン、ナポリ
といった状態であった。

そういう国々では、地下活動を続けていたが、教皇庁への圧力が大きくなり、教皇としてもいやいやながらイエズス会解散を決断しなければならなくなった。

一七七三年の解散命令の後、多くのエイズス会士が英国とロシアに逃亡したと言う。
正教が主流であるロシアではイエズス会が活動を継続していたから当然としても、英国への逃亡は興味深い。イエズス会が主敵として来た相手はプロテスタントであり、英国はプロテスタントの本陣だったのである。

プロテスタントと戦うために結成されたとしばしば言われるほど、イエズス会は対プロテスタント突撃部隊の性格を持つ修道会であった。プロテスタントの脅威があったればこそ、イエズス会はその激しい行動が容認されて来たのである。それが英国に逃げ込み、英国もあっさりと受け入れた、不倶戴天の敵であったはずの両者にしてこれである。まさにヨーロッパの権謀術策の歴史である。

イエズス会が復活するのは一八一四年であるが、それまでの間も地下活動が続けられていたのは当然である。
そこで、英国に逃げたイエズス会が、ヴィルヘルム九世を介し、ロスチャイルドを使ってワイスハウプトに資金提供した可能性が浮かび上がる。
ヴィルヘルム九世は、ヨーロッパにいたが、血筋は英国王室である。アメリカ独立戦争時には英国のためにドイツ傭兵をアメリカに送るなどしている。英国の代理人と見ていい人物である。
微妙な状態に置かれていたイエズス会が自らのチャンネルを使ってカトリック教会に発覚するのを避け、秘密を守れる別チャンネルを使ってワイスハウプトに資金提供するとしたら、これ以上はない送金経路がヴィルヘルム九世ルートである。
いや、イエズス会は英国に金を渡し、依頼しただけかもしれない。そして、ヴィルヘルム九世は、まだ強い関係である事が世間に知られていないマイヤー・ロスチャイルドを使ってワイスハウプトに金を渡したのである。双方がユダヤ人だという事もあったかもしれない。
クニッゲがワイスハウプトを「偽装イエズス会」と罵ったのは、あながち間違ってはいなかったのかもしれない。

銀行を作ったのはカトリック教会である。戦争ばかりしていた領主や王族諸侯に戦費を貸していたし、十字軍では本国から戦地にいる騎士たちへの給料の送金システムを作り上げた。こうした金貸し業務をするには、当時、教会の許可が必要だったが、教会は自らには何もかも許した。ユダヤ人の金貸しと言っても小金のやりとりにすぎなかった。戦費といった規模の資金は教会にしか調達できなかった。
ロスチャイルドが銀行業で成功するには、教会の中から助力がなければ不可能だったはずなのである。その助力をしたのが最大の修道会であり、資金力もあったイエズス会であったとしても不思議ではない。そうだとすれば、ワイスハウプトへの送金が結びつきの最初だったかもしれない。

スイス傭兵やドイツ傭兵はヨーロッパ各地に雇われ、戦ったが、カトリック教会は大口の顧客のひとつであった。その中でも、スペイン軍人が設立者であったイエズス会は、軍事組織と情報組織と教育機関が一体となった修道会で、傭兵との関係も強かったはずだ。英国がドイツ傭兵を使うにあたって、イエズス会がこれを仲介したという事も十分にありえるのである。

インゴルシュタットを脱出して二年後の一七八七年、ワイスハウプトはゴータに姿を現した。
ゴータに落ち着き、教会に許しを乞う手紙を書き続けたワイスハウプトだったが、許される事はなかったという。それでも、熱心に教会活動を行い、秘密結社のつながりはこれを一切絶っていたと百科にある。
クニッゲは一七九六年に没し、関係があったかなかったか、マイヤー・ロスチャイルドも一八一二年に死んだ。
一八三〇年十一月一八日、アダム・ワイスハウプトはその生涯を閉じた。教会との和解は成立したという。