ヨーロッパの古代国家はローマだが、ローマの後継者となったカトリック教会は中世にあって世界となった。その理由はローマが世俗権力であったのに対して、教会は神聖権力だったからである。そのため、人の内面まで拘束した結果、ひとつ高次な権力となったわけである。
そして、世界から分離する形で国家が成立する。その事によって中世が終わって行くわけだから、国家の世界からの分離とは、近世への歴史の移り変わりを示す画期である。
ヨーロッパの近世国家は戦争や生産への人員動員の必要から領民に権利を与えて行った。人の権利はこうして上から与えられたもので、最初は何もなかった。
王の領地に付属した領民は、権利を与えられる事によって国民化して行った。権利に対する意識が所属意識、あるいは、帰属意識、つまり、アイデンティティーと言っていいかもしれない。
お父さんが偉いのは戦争に行って権利を獲得して来たからである。権利獲得装置としてのお父さんの役割が終わると、次の権利獲得装置としての女の役割が増え、男より女の方が偉いといった風潮になる。この構造は無権利状態からの離陸を前提としているものだ。
もし、国家が戦争などで敗北した場合、手に入れた権利が損なわれてしまう。
そうした利害が根底にあって、国家は利害共同体となり、そこで愛国心が少しずつ形成されて行く。
国家が作られて行くのは主に二十世紀に入って以降である。当然、愛国心の形成はもっと遅く、先進国でもって第二次大戦を経て、他の地域、国では、国家の形成過程を通じて、愛国心が作られて行く。
利害共同体の基礎は言語・民族・習慣をひとつにする集団となる場合が多い。
大きくまとまっている方が利益の分配に都合がいいからである。王族など、権力中枢は最も少数派に決まっているが、多数派を敵にまわすと面倒臭い。どちらにしても権利を分け与えるなら、多数派に与えた方が効率がいいわけである。そこで多数派が優先される。そして、社会が発展すると、多数派に余裕が出来て来て、少数派にも権利を分けようという気運が生じる場合が多い。常に後回しにされている二番手、三番手の集団が完全にそっぽを向いてしまうと多数派も困るので、調整が必要になるのである。
社会主義国家でこの過程が進まないのは、独裁集団が社会の発展を抑制してしまうためであり、また、権利が党に集中したまま固定するためである。この固定は調整ではなく強制によって成し遂げられる。
集団間の利害の衝突は常に存在し、調整の必要も常に存在する。アメリカは利害の衝突が大きな国で、それだけに内部の緊張も大きい。大統領の権限が大きい
のは利害の衝突の大きさに比例している。アメリカの統治力の高さは、その必要あっての事である。それでも、常にほつれている。
日本では、古代国家がローマと違い、神聖権力であったため、そこから世界が生まれる事はなかった。かえって、武家による世俗権力の確立によって中世が成立するという過程をたどった。日本人が「世界」を把握しにくいのは、そういう理由があるかもしれない。
世界は、普遍的に地球丸ごとというイメージではなく、ヨーロッパ中世のカトリック世界の事ととらえた方がいい。別の言い方をすれば、それは地域に他ならない。
ヨーロッパ人は、そういうローカル極まりないものを、グローバルで普遍的だと誤解しているが、つける薬はないから放っておくしかない。せいぜい、こちらはヨーロッパの自己申告を真に受けないようにするのが肝心だろう。日本にとって、世界など、本質的にどうでもいいのだ。世界などより地球の方が大事に決まっている。
日本の愛国心は明治以降に成立して行く。それ以前、近世=江戸時代はお家が大事だった。古代から戦国時代まで、一族郎党が生きる単位だった。人々は棟梁に所属し、棟梁の敵は自分の敵だった。お家とはその一族郎党である。後は、村に帰属したり、職業に帰属し、その共同性の中で人は生きた。
明治以降、それが国家に対する帰属意識に変わるには日露戦争が大きなきっかけだったと考えられる。明治になったと言っても、政府自体が薩長藩閥意識から抜けられずにいた。だが、日露戦争を前に国民の側が危機意識を持ち、郵便貯金をして行く。
郵便貯金は日露戦争の戦費を捻出するために始められた制度であった。これが意外な貯金を集めた。特に地方での貯金が多額なものとなったのに目をつけた明治革新官僚たちが、地方改良運動をはじめる遠因となった。
日本は、当時の超大国ロシアとの戦争によって一体となり、国家意識を高揚させ、愛国心を形成した。
日本の愛国心は、このような状態で成立したものであり、天皇の赤子としての帰属意識が重要な位置を占めた。
ヨーロッパのように、利益があるから帰属するという事ではなく、神聖性に帰属するという所で日本の愛国心の基底はかなり違う。もちろん、それだからと言って、日本を卑下する必要もないし、日本人は純粋で偉いなどと思い上がる必要もない。ただ、違うというだけの話だ。
基本的に愛国心は、必要に迫られての事であっても、国家が権利の保証装置となったところに発生した。
これは健全な事である。日本人の安全と利益を守るのは、最終的に日本国家しかない。
その状態は当面変わらないにしても、国家を取り巻く状況は、少しずつだが、柔らかなものとなっている。自己防衛のために身構えていなくても、周囲とうまくやって行く可能性が出て来ている。
この可能性が拡大すれば、愛国心が愛国心の内部から、自らを超えるものを生み出すだろう。愛国心が人類愛といったものの母となるのである。
普遍的な人類愛が、いきなり成立するものではない。踏まえるべき現実が国家であるなら、あるいは地域であるなら、そこからしか次のものは作り出せない。