2011年1月7日金曜日

新約聖書「マタイ伝」

新約聖書「マタイ伝」によれば、イエスは奥義を譬え=象徴で語る人である。

第十三章
十 弟子たち御許《みもと》に來りて言ふ『なにゆゑ譬《たとへ》にて彼らに語り給ふか』
十1 答へて言ひ給ふ『なんぢらは天國の奧義《おくぎ》を知ることを許されたれど、彼らは許されず。

イエス・キリストの像に惑わされず、象徴を使って語るというところに注目すれば、それが隠秘主義、神秘主義=オカルトの著しい特徴に他ならない事に気がつく。
同じ章の

三四 イエスすべて此等のことを譬《たとへ》にて群衆に語りたまふ、譬《たとへ》ならでは何事も語り給はず。
三五 これ預言者によりて云はれたる言《ことば》の成就せん爲なり。曰く『われ譬《たとへ》を設けて口を開き、世の創《はじめ》より隱れたる事を言ひ出さん』

世のはじめより隠れたる事をたとえで語るというのは、隠しつつ語り、語りつつ隠すという、これもまたまさしくオカルトそのものの話法である。
さらに、こういう部分もある。

第十六章である。

六 イエス言ひたまふ『愼みてパリサイ人とサドカイ人とのパン種に心せよ』
七 弟子たち互に『我らはパンを携へざりき』と語り合ふ。
八 イエス之を知りて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞパン無きことを語り合ふか。
九 未だ悟らぬか、五つのパンを五千人に分ちて、その餘を幾籃《いくかご》ひろひ、
十 また七つのパンを四千人に分ちて、その餘を幾籃《いくかご》ひろひしかを覺えぬか。
十1 我が言ひしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。唯パリサイ人とサドカイ人とのパンだねに心せよ』
十二 爰《こゝ》に弟子たちイエスの心せよと言ひ給ひしは、パンの種にはあらで、パリサイ人とサドカイ人との教なることを悟れり。

イエスの信仰とは「パン」が「パリサイ人とサドカイ人との教」であるのを咄嗟に解読するような頭脳の働きを要求するものである。
このような知性主義は崇め、礼拝する事に主眼をおく一般的な信仰というよりも、謎を読み解く事を主眼とするオカルトのものである。
イエス・キリストにとって、オカルトの解読に精通する事こそが信仰なのであり、崇め、拝む事ではないのだ。
預言者イエスは、喩え話で隠れた原初の真実を語る人であるだけでなく、また、治療師=医師であり、パンを増やしたり、水上を歩いたりする人である。
こうした特徴をならべて行くと、浮かび上がる像は、錬金術師といった方が近い。つまりオカルティストである。
イエス・キリストは高度な術を身につけたオカルティストだったかもしれないのである。技術だけではない。超能力も持っていたかもしれない。自然魔術と超能力が渾然一体となった力を持った修行者だったのである。

バプティスマのヨハネは水を使った洗礼を行った。水による再生のイメージはわかりやすい。そのヨハネは、イエスは火によってバプテスマを施すと言っている。

第三章
十一 我は汝らの悔改《くいあらため》のために、水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力《ちから》あり、我はその鞋《くつ》をとるにも足らず、彼は聖靈と火とにて汝らにバプテスマを施さん。

イエスが喩えで語る以上、聖書は比喩や象徴として語られていると見なければならない。では、ヨハネの言葉は何を象徴しているのだろう?
火はゾロアスターである。ソロアスターはミトラ教系の信仰である。ミトラ教では十字架が使われている。
イエスは処刑される時、十字架にかけられたのではなく、一本柱に磔にされたのだが、それがあえて十字架とされた。それは、ゾロアスターというよりは、ミトラ教のイメージがイエスに重ねられ、関係づけられたからではないだろうか。
それによって、イエスの死の力が増したのである。
東方より訪れた博士たちは、ゾロアスター=ミトラの使者であり、賢者だったろう。おそらく、彼らがエジプトでか、ナザレでか、イエスを教育・訓練した。
その成果が自在の喩をあやつる話術であり、医術であった。
また、イエスの父ヨセフが大工であった事も意味があるかもしれない。これを建築技術者と見れば、後のフリーメーソンにつながる。
フリーメーソンを作ったとされるテンプル騎士団は、十字軍に参加した時、ソロモンの神殿で重要な秘密を手にしたとされる。その秘密が、イエスの誕生にまつわる東の賢者とつながっていたかもしれない。
フリーメーソンはカトリック教会によって禁止されたために秘密結社なのだが、そのもうひとつ奥の事情として、あえてよく知られた秘密結社である事によってイエスが秘密結社員だった事を示しているのかもしれない。
キリスト教会=イエス・グループそのものも、まさしく秘密結社としての布教活動を余儀なくされた時期もあった。その時のイエス・グループは、もっと大きな結社のロッジだったかもしれない。

処刑される時、イエスは、

第二十七章
四六 三時ごろイエス大聲に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひしとの意《こゝろ》なり。

と、エリヤに呼びかけている。このエリアこそが、東の賢者を遣わしたのではないか。
イエスは秘密結社エリヤが育てたオカルト術者であり、ユダヤ教パリサイ派に対する攻撃を任務とした超能力者だったのではないか。
だが、部下(使徒)たちに背かれ、エリヤに見捨てられ、死んで行った。
そして、エリヤは、これを反魂の術で生き返らせたのである。
マタイ伝の第八章には、生き返った者の話がある。

二八 イエス彼方《かなた》にわたり、ガダラ人の地にゆき給ひしとき、惡鬼に憑かれたる二人のもの、墓より出できたりて之に遇ふ。その猛きこと甚だしく、其處の途《みち》を人の過ぎ得ぬほどなり。

「悪鬼に憑かれたる二人のもの、墓より出できたり」というのは、まるでゾンビーである。ゾンビーは西アフリカの呪術者の中で邪道に転じ、奴隷として追放された者がハイチで行っている呪術であるが、世界各地に、伝説として蘇りの話はある。
エリヤが遺伝子工学でイエスのクローンを作っていたとしても不思議ではない。オカルトはすでに古代、いや、神代において多くの事を成し遂げていた形跡がある。そして、それが処女懐胎の真相であるかもしれない。

イエスがオカルティストであるかもしれず、また、秘密結社員であったかもしれないという事で、イエスが悪魔の使いだったなどと言いたいのではない。敬虔な真の信仰と、信仰に裏打ちされた力を持っていたが故に比喩でしか語れなかったのかもしれないし、時が来るまでは明かせない真実もあるかもしれない。
ただ、マタイ伝を素直に読むと、このような読み方が出来るというだけである。
歴史的に見れば、キリスト教会は多くの悪業に手を染めて来た。しかし、信者の信仰の純粋さとその事は切り離して考えられる。
、つい最近も、聖職者たちが、長年にわたって世界各国で児童強姦を繰り返して来た事が明らかになったが、明らかにしたのも、また、キリスト教徒である。
イエスは、さんざん教えたにもかかわらず、「パン」が「パリサイ人とサドカイ人との教」であるのを理解できず、実体的にパンだとしか思えない弟子たちを見て、奥義を明かせなかっただろう。力を与える段階にないと判断せざるをえなかったのである。だが、象徴的には教えたのではないか。
秘密である理由が、善であるのか、悪であるのか、そのどちらもありえる。だから、秘密結社である事そのものから善悪の判断はできない。
そのような前提をどれだけ共有できるかわからないが、その上で、マタイ伝を読み、イエス・キリスト一派がミトラと何らかの関係を持つ結社の一員であった可能性を考えるに至った。