2011年1月31日月曜日

目森一喜情報解析 ビジネス・インテリジェンス・リソーセズ

ヒラリー・クリントン:「エジプト政府は我々のパートナーのまま」。
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エジプト警察が対暴動で使用の催涙ガスはアメリカ製。
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2011年1月27日木曜日

情報解析 ビジネス・インテリジェンス・リソーセズ 

1月23日から秋葉原の歩行者天国が再開された(6月26日まで試験的再開)と
思ったら、何の事はない、1月25日に歩行者天国中止の原因と なった秋葉原無
差別連続殺傷事件の被告加藤智大に死刑が求刑された。

検察もイベント型裁判を仕掛けるとは巧妙になったものだと感心する。マスコ
ミはこういう仕掛けに乗って、ますます悪質になる。まあ、元々善良で あった
わけではないし、さほど能力があったわけでもないから嘆くような話でもないの
が救いではある。

日本の法律に死刑がある以上、加藤智大が死刑であっても構わないが、情動を
煽る検察と法務省のやり方には疑問がある。

馬鹿な事をやったものだ。
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2011年1月7日金曜日

新約聖書「マタイ伝」

新約聖書「マタイ伝」によれば、イエスは奥義を譬え=象徴で語る人である。

第十三章
十 弟子たち御許《みもと》に來りて言ふ『なにゆゑ譬《たとへ》にて彼らに語り給ふか』
十1 答へて言ひ給ふ『なんぢらは天國の奧義《おくぎ》を知ることを許されたれど、彼らは許されず。

イエス・キリストの像に惑わされず、象徴を使って語るというところに注目すれば、それが隠秘主義、神秘主義=オカルトの著しい特徴に他ならない事に気がつく。
同じ章の

三四 イエスすべて此等のことを譬《たとへ》にて群衆に語りたまふ、譬《たとへ》ならでは何事も語り給はず。
三五 これ預言者によりて云はれたる言《ことば》の成就せん爲なり。曰く『われ譬《たとへ》を設けて口を開き、世の創《はじめ》より隱れたる事を言ひ出さん』

世のはじめより隠れたる事をたとえで語るというのは、隠しつつ語り、語りつつ隠すという、これもまたまさしくオカルトそのものの話法である。
さらに、こういう部分もある。

第十六章である。

六 イエス言ひたまふ『愼みてパリサイ人とサドカイ人とのパン種に心せよ』
七 弟子たち互に『我らはパンを携へざりき』と語り合ふ。
八 イエス之を知りて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞパン無きことを語り合ふか。
九 未だ悟らぬか、五つのパンを五千人に分ちて、その餘を幾籃《いくかご》ひろひ、
十 また七つのパンを四千人に分ちて、その餘を幾籃《いくかご》ひろひしかを覺えぬか。
十1 我が言ひしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。唯パリサイ人とサドカイ人とのパンだねに心せよ』
十二 爰《こゝ》に弟子たちイエスの心せよと言ひ給ひしは、パンの種にはあらで、パリサイ人とサドカイ人との教なることを悟れり。

イエスの信仰とは「パン」が「パリサイ人とサドカイ人との教」であるのを咄嗟に解読するような頭脳の働きを要求するものである。
このような知性主義は崇め、礼拝する事に主眼をおく一般的な信仰というよりも、謎を読み解く事を主眼とするオカルトのものである。
イエス・キリストにとって、オカルトの解読に精通する事こそが信仰なのであり、崇め、拝む事ではないのだ。
預言者イエスは、喩え話で隠れた原初の真実を語る人であるだけでなく、また、治療師=医師であり、パンを増やしたり、水上を歩いたりする人である。
こうした特徴をならべて行くと、浮かび上がる像は、錬金術師といった方が近い。つまりオカルティストである。
イエス・キリストは高度な術を身につけたオカルティストだったかもしれないのである。技術だけではない。超能力も持っていたかもしれない。自然魔術と超能力が渾然一体となった力を持った修行者だったのである。

バプティスマのヨハネは水を使った洗礼を行った。水による再生のイメージはわかりやすい。そのヨハネは、イエスは火によってバプテスマを施すと言っている。

第三章
十一 我は汝らの悔改《くいあらため》のために、水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力《ちから》あり、我はその鞋《くつ》をとるにも足らず、彼は聖靈と火とにて汝らにバプテスマを施さん。

イエスが喩えで語る以上、聖書は比喩や象徴として語られていると見なければならない。では、ヨハネの言葉は何を象徴しているのだろう?
火はゾロアスターである。ソロアスターはミトラ教系の信仰である。ミトラ教では十字架が使われている。
イエスは処刑される時、十字架にかけられたのではなく、一本柱に磔にされたのだが、それがあえて十字架とされた。それは、ゾロアスターというよりは、ミトラ教のイメージがイエスに重ねられ、関係づけられたからではないだろうか。
それによって、イエスの死の力が増したのである。
東方より訪れた博士たちは、ゾロアスター=ミトラの使者であり、賢者だったろう。おそらく、彼らがエジプトでか、ナザレでか、イエスを教育・訓練した。
その成果が自在の喩をあやつる話術であり、医術であった。
また、イエスの父ヨセフが大工であった事も意味があるかもしれない。これを建築技術者と見れば、後のフリーメーソンにつながる。
フリーメーソンを作ったとされるテンプル騎士団は、十字軍に参加した時、ソロモンの神殿で重要な秘密を手にしたとされる。その秘密が、イエスの誕生にまつわる東の賢者とつながっていたかもしれない。
フリーメーソンはカトリック教会によって禁止されたために秘密結社なのだが、そのもうひとつ奥の事情として、あえてよく知られた秘密結社である事によってイエスが秘密結社員だった事を示しているのかもしれない。
キリスト教会=イエス・グループそのものも、まさしく秘密結社としての布教活動を余儀なくされた時期もあった。その時のイエス・グループは、もっと大きな結社のロッジだったかもしれない。

処刑される時、イエスは、

第二十七章
四六 三時ごろイエス大聲に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひしとの意《こゝろ》なり。

と、エリヤに呼びかけている。このエリアこそが、東の賢者を遣わしたのではないか。
イエスは秘密結社エリヤが育てたオカルト術者であり、ユダヤ教パリサイ派に対する攻撃を任務とした超能力者だったのではないか。
だが、部下(使徒)たちに背かれ、エリヤに見捨てられ、死んで行った。
そして、エリヤは、これを反魂の術で生き返らせたのである。
マタイ伝の第八章には、生き返った者の話がある。

二八 イエス彼方《かなた》にわたり、ガダラ人の地にゆき給ひしとき、惡鬼に憑かれたる二人のもの、墓より出できたりて之に遇ふ。その猛きこと甚だしく、其處の途《みち》を人の過ぎ得ぬほどなり。

「悪鬼に憑かれたる二人のもの、墓より出できたり」というのは、まるでゾンビーである。ゾンビーは西アフリカの呪術者の中で邪道に転じ、奴隷として追放された者がハイチで行っている呪術であるが、世界各地に、伝説として蘇りの話はある。
エリヤが遺伝子工学でイエスのクローンを作っていたとしても不思議ではない。オカルトはすでに古代、いや、神代において多くの事を成し遂げていた形跡がある。そして、それが処女懐胎の真相であるかもしれない。

イエスがオカルティストであるかもしれず、また、秘密結社員であったかもしれないという事で、イエスが悪魔の使いだったなどと言いたいのではない。敬虔な真の信仰と、信仰に裏打ちされた力を持っていたが故に比喩でしか語れなかったのかもしれないし、時が来るまでは明かせない真実もあるかもしれない。
ただ、マタイ伝を素直に読むと、このような読み方が出来るというだけである。
歴史的に見れば、キリスト教会は多くの悪業に手を染めて来た。しかし、信者の信仰の純粋さとその事は切り離して考えられる。
、つい最近も、聖職者たちが、長年にわたって世界各国で児童強姦を繰り返して来た事が明らかになったが、明らかにしたのも、また、キリスト教徒である。
イエスは、さんざん教えたにもかかわらず、「パン」が「パリサイ人とサドカイ人との教」であるのを理解できず、実体的にパンだとしか思えない弟子たちを見て、奥義を明かせなかっただろう。力を与える段階にないと判断せざるをえなかったのである。だが、象徴的には教えたのではないか。
秘密である理由が、善であるのか、悪であるのか、そのどちらもありえる。だから、秘密結社である事そのものから善悪の判断はできない。
そのような前提をどれだけ共有できるかわからないが、その上で、マタイ伝を読み、イエス・キリスト一派がミトラと何らかの関係を持つ結社の一員であった可能性を考えるに至った。

2011年1月6日木曜日

国家

 ヨーロッパの古代国家はローマだが、ローマの後継者となったカトリック教会は中世にあって世界となった。その理由はローマが世俗権力であったのに対して、教会は神聖権力だったからである。そのため、人の内面まで拘束した結果、ひとつ高次な権力となったわけである。
 そして、世界から分離する形で国家が成立する。その事によって中世が終わって行くわけだから、国家の世界からの分離とは、近世への歴史の移り変わりを示す画期である。
 ヨーロッパの近世国家は戦争や生産への人員動員の必要から領民に権利を与えて行った。人の権利はこうして上から与えられたもので、最初は何もなかった。
 王の領地に付属した領民は、権利を与えられる事によって国民化して行った。権利に対する意識が所属意識、あるいは、帰属意識、つまり、アイデンティティーと言っていいかもしれない。
 お父さんが偉いのは戦争に行って権利を獲得して来たからである。権利獲得装置としてのお父さんの役割が終わると、次の権利獲得装置としての女の役割が増え、男より女の方が偉いといった風潮になる。この構造は無権利状態からの離陸を前提としているものだ。
 もし、国家が戦争などで敗北した場合、手に入れた権利が損なわれてしまう。
そうした利害が根底にあって、国家は利害共同体となり、そこで愛国心が少しずつ形成されて行く。
 国家が作られて行くのは主に二十世紀に入って以降である。当然、愛国心の形成はもっと遅く、先進国でもって第二次大戦を経て、他の地域、国では、国家の形成過程を通じて、愛国心が作られて行く。
 利害共同体の基礎は言語・民族・習慣をひとつにする集団となる場合が多い。
大きくまとまっている方が利益の分配に都合がいいからである。王族など、権力中枢は最も少数派に決まっているが、多数派を敵にまわすと面倒臭い。どちらにしても権利を分け与えるなら、多数派に与えた方が効率がいいわけである。そこで多数派が優先される。そして、社会が発展すると、多数派に余裕が出来て来て、少数派にも権利を分けようという気運が生じる場合が多い。常に後回しにされている二番手、三番手の集団が完全にそっぽを向いてしまうと多数派も困るので、調整が必要になるのである。
 社会主義国家でこの過程が進まないのは、独裁集団が社会の発展を抑制してしまうためであり、また、権利が党に集中したまま固定するためである。この固定は調整ではなく強制によって成し遂げられる。
 集団間の利害の衝突は常に存在し、調整の必要も常に存在する。アメリカは利害の衝突が大きな国で、それだけに内部の緊張も大きい。大統領の権限が大きい
のは利害の衝突の大きさに比例している。アメリカの統治力の高さは、その必要あっての事である。それでも、常にほつれている。
 日本では、古代国家がローマと違い、神聖権力であったため、そこから世界が生まれる事はなかった。かえって、武家による世俗権力の確立によって中世が成立するという過程をたどった。日本人が「世界」を把握しにくいのは、そういう理由があるかもしれない。
 世界は、普遍的に地球丸ごとというイメージではなく、ヨーロッパ中世のカトリック世界の事ととらえた方がいい。別の言い方をすれば、それは地域に他ならない。
 ヨーロッパ人は、そういうローカル極まりないものを、グローバルで普遍的だと誤解しているが、つける薬はないから放っておくしかない。せいぜい、こちらはヨーロッパの自己申告を真に受けないようにするのが肝心だろう。日本にとって、世界など、本質的にどうでもいいのだ。世界などより地球の方が大事に決まっている。
 日本の愛国心は明治以降に成立して行く。それ以前、近世=江戸時代はお家が大事だった。古代から戦国時代まで、一族郎党が生きる単位だった。人々は棟梁に所属し、棟梁の敵は自分の敵だった。お家とはその一族郎党である。後は、村に帰属したり、職業に帰属し、その共同性の中で人は生きた。
 明治以降、それが国家に対する帰属意識に変わるには日露戦争が大きなきっかけだったと考えられる。明治になったと言っても、政府自体が薩長藩閥意識から抜けられずにいた。だが、日露戦争を前に国民の側が危機意識を持ち、郵便貯金をして行く。
 郵便貯金は日露戦争の戦費を捻出するために始められた制度であった。これが意外な貯金を集めた。特に地方での貯金が多額なものとなったのに目をつけた明治革新官僚たちが、地方改良運動をはじめる遠因となった。
 日本は、当時の超大国ロシアとの戦争によって一体となり、国家意識を高揚させ、愛国心を形成した。
 日本の愛国心は、このような状態で成立したものであり、天皇の赤子としての帰属意識が重要な位置を占めた。
 ヨーロッパのように、利益があるから帰属するという事ではなく、神聖性に帰属するという所で日本の愛国心の基底はかなり違う。もちろん、それだからと言って、日本を卑下する必要もないし、日本人は純粋で偉いなどと思い上がる必要もない。ただ、違うというだけの話だ。
 基本的に愛国心は、必要に迫られての事であっても、国家が権利の保証装置となったところに発生した。
 これは健全な事である。日本人の安全と利益を守るのは、最終的に日本国家しかない。
 その状態は当面変わらないにしても、国家を取り巻く状況は、少しずつだが、柔らかなものとなっている。自己防衛のために身構えていなくても、周囲とうまくやって行く可能性が出て来ている。
 この可能性が拡大すれば、愛国心が愛国心の内部から、自らを超えるものを生み出すだろう。愛国心が人類愛といったものの母となるのである。
 普遍的な人類愛が、いきなり成立するものではない。踏まえるべき現実が国家であるなら、あるいは地域であるなら、そこからしか次のものは作り出せない。